狭山市奥富にある梅宮神社の周りには、大きな稲田が広がっています。新篇武蔵野風土記稿などによると西暦1500年中頃には稲作を行っていたようです。

 もちろん今でも、田植え時期になると稲田には水が入り、稲が育った青々とした風景が見られます。稲穂がこうべを垂れた、刈り入れ前の黄金の風景は実に壮観なものです。

 梅宮神社は、お酒の神様を祀っている神社で、毎年2月には甘酒祭りを行っています。

 昭和29年7月、入間村、堀兼村、奥富村、入間川町、柏原村、水富村の5村1町の合併で狭山市となりました。旧奥富村の一部(現・新狭山)から川越にかけて工業団地も設けられ、現在は大きな工業団地が2つもあり、狭山茶でも有名なまちです。
「狭山のお米でお酒を作れないか?」


 時が移り変わり現在。様々な理由から景気が芳しくない状態が続いていました。新狭山の商店街にお店を出している酒屋の店主も感じるところがありました。

 景気が下向きに感じられると不安感から人々の笑顔も少なくなってしまう…。

 自分の普段の仕事を通して、人が活気付く方法がないかと考えていました。
 普段から付き合いのある居酒屋の店主との話の中で、酒造りに興味のありそうな農家の青年がいるとのことで話は現実味を帯びてきます。

 そして、かつて奥富と呼ばれていた新狭山の酒屋の店主、全国各地の地酒を扱っている居酒屋の店主、地元でお米を作る奥富の農家の青年と3人で日本酒をつくるための活動を始めました。

 奥富という地域で、人と人とのつながりで生まれたのが 狭山の酒(奥富村)里平 です。

 最初に作ったお酒は、『彩のかがやき』というお米を使いました。1年目には、考えに共感してくれた方や子どもたちにも、田植えから参加してもらいました。ぬかるみに足をとられ転んで泥だらけになってしまうこともありましたが、みんな笑顔でした。米の品種は『さけ武蔵』です。3年目は作った日本酒をベースに、奥富の梅を使った梅酒。3、4年目はお米は彩のきずなを使用。

お酒の仕込みは、南部杜氏 小林清司氏(狭山市在住・飯能・五十嵐酒造株式会社)に依頼。『狭山』というつながりが造ったお酒です。

『里平(りへい)』の名は、原料米の生産者が尊敬する「真の百姓」であった生産者の祖父の名からとりました。 産地・狭山(奥富)から、ふる「里」に「平」和が続きますようにと名付けました。

 いずれも評判は上々で、噂を聞きつけた地元の米農家さんも購入しに来てくれるようになりました。
長引くコロナ禍、

営業が制限される飲食店、
      
地元企業・店舗の移転・閉店


 東京オリンピックが一年遅れで無事終了し、本来ならその盛り上がりも続いていたかもしれません。コロナ禍が長引くことで影響をうけ、生活環境が変わった方も多いのではないでしょうか。

 また、世代交代が難しい状態だったり、『まだまだ現役』と先頭をきって頑張っている人が多い世代で第一線を退く形になったりすることも、まま見られます。
狭山で みんなでつくる地酒という

新しい産業で 地域を元気に!


 いずれは、奥富のお米を全てお酒にしたい。
できるだけ多くの人に狭山のお酒『奥富村里平』の
ファンになってもらいたい!

 そのために、支援していただける方を募集します。

里平をつくるにあたっての SDGs目標

持続可能な農業の促進

地域の経済成長雇用

地域の農業者とともに

低農薬のお米作り